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奈良県大和郡山市(JR郡山駅すぐ)
  1. セルフケアのために 〜こころの整理に役立つお話
 

セルフケアのために 〜こころの整理に役立つお話

2017/02/17 セルフケアのために 〜こころの整理に役立つお話

日々の心や身体の健康をセルフケアについて、みなさまのお役に立てたら幸いです。

 

○ 呼吸のこと

○ どんなふうに物事を捉えていけばいいか

○ 考え方の整理など

○ 心と健康に関するセミナーや講演会、ワークショップなどの情報



 

休みの日、近所の神社の境内にある銀杏の葉に、

きらきらと光が反射していました。

 

 

秋の日の光が、冴えて澄みわたっている日でした。

紅葉狩りに遊びにいく間がなくて、

でも身近でこんなに美しく色ついた景色を見せてもらって、

ありがたいことでした。

 

 

さて、11月の初旬に、

高野山の布教師である浅田慈照尼さんのお宅へ伺いました。

世に有名な「般若心経」について、教えていただきに訪ねました。

 

 

「般若」というのは「いい意味で、’諦める’智慧」のことらしいです。

その智慧について、説かれているお経のようですが、

なにぶんにわたしの理解が浅く、ここで長々と書く事ができません。

 

 

ただ、最初に、浅田慈照尼さんが

「般若心経は1人称-現在形であり続けるためのお経」だと仰ったのが、

わたしの心に残りました。

 

 

また

「ひとが自分で選んで歩いてきた、その道が正しい。

 蓮の花の上を選んで歩く、のではなく、

 足を置いた所に蓮の花があるそのように歩くのだ」とも。

 

 

そのように、ひとの歩みの1歩1歩が、

美しく、尊いものなのだなぁ、と。

 

 

なんと美しいイメージでしょうね。

絵に描いてみたくなりました。





 

↑この写真...

前夜から霧が立ち込め、朝も霧に包まれていた日がありました。

 

霧のせいで、太陽の光がぼんやりとしているし、

周りの景色も見えない。

 

しかしかえって、太陽の輪郭がはっきりと、

太陽が月のように丸く見えるのが、とてもオモシロイと思いました。

明るい朝なら見えないモノを、見ることができました。

 

----------------------------------

 

日常生活の中で、ありませんか?

そういうこと...

 

見すぎないからこそ、

見える、みたいな。

 

「見てやろう、見るぞ!」みたいな「力み」がないから、

ぼんやりとした中から、「ハッ」と見える、みたいな。

 

こういうときの身体の状態、って

どうなっているでしょうね?

 

多分、歯を食いしばったり、

息をつめたりしていないと思います。

 

むしろ、口角はだらしなく緩み(笑)、

呼吸はゆったり、ではないかな。

 

「ぼんやりのムコウ」に見えてくる

「気づきの瞬間」は、とてもexciting!

 

といっても、ソレを「狙う」とまた、

逃げていくんですけどね...

 

ぼ〜んやり眺める...

なかなかエエもんですよ。



----------------------------------








 

↑この写真...

前夜から霧が立ち込め、朝も霧に包まれていた日がありました。

 

霧のせいで、太陽の光がぼんやりとしているし、

周りの景色も見えない。

 

しかしかえって、太陽の輪郭がはっきりと、

太陽が月のように丸く見えるのが、とてもオモシロイと思いました。

明るい朝なら見えないモノを、見ることができました。

 

----------------------------------

 

日常生活の中で、ありませんか?

そういうこと...

 

見すぎないからこそ、

見える、みたいな。

 

「見てやろう、見るぞ!」みたいな「力み」がないから、

ぼんやりとした中から、「ハッ」と見える、みたいな。

 

こういうときの身体の状態、って

どうなっているでしょうね?

 

多分、歯を食いしばったり、

息をつめたりしていないと思います。

 

むしろ、口角はだらしなく緩み(笑)、

呼吸はゆったり、ではないかな。

 

「ぼんやりのムコウ」に見えてくる

「気づきの瞬間」は、とてもexciting!

 

といっても、ソレを「狙う」とまた、

逃げていくんですけどね...

 

ぼ〜んやり眺める...

なかなかエエもんですよ。



♪゜・*:.。. .。.:*・

【ボイスアートグループレッスン@なら】
11月19日(日)13:30〜15:30 開催します♪

わたしがわたしに還る時間です。

自分の息と声に集中して耳を傾け、みずからの心と身体を癒していきます。

深い自分と繋がることで、さらに自分の可能性にも気づいていきます。

 

自分の息や声を使って、

日ごろの心の疲れのデトックス!

 

会場は、和の落ち着きと癒しを感じる

「ギャラリーと学びの町家 月眠」さんです。

 

ふぅ〜と、一息つきにいらっしゃいませんか。

 

自分の息や声を使ってできるセルフセラピーへの一歩。

お待ちしていますヽ(*´∀`)ノ


必要な方に、タイミングで
 「自分に還る時間」をご一緒できましたら、嬉しく思います。

皆さまのご参加を心より、お待ち申し上げております。

 

 

〇 グループレッスン内容

  • ボイスアートってなぁに?
  • ボイスアートの基本呼吸法を体験してみよう
  • 自分の声を使って、遊んでみよう

ボイスアートグループレッスンの場には、競争や評価がありません。

徹底的に「ひとに合わせない」ことで、自分と他者との「調和」を体験します。

そして自分の息や声を使うセルフセラピーなので、依存性もありません。


開催日時2017年11月19日(日) 13時30分〜15時30分
開催場所

ギャラリーと学びの町屋「月眠」(奈良ホテル近く、「瑜伽(ゆか)神社」そば)

「月眠」へのアクセスはコチラ

開催人数

受講料

8名

2500円(1回体験の場合) ※初級コースへの振り替えができます













先週は、橋本〜高野山へボイスアートの仲間とともに出かけました。

光三寳荒神のご住職、あるいは高野山・金剛峯寺の布教師の浅田慈照尼とお会いし、

貴重なお話を伺ったり...

 

あるいは、ゲシュタルト療法ワークショップで、

自分の夢を味わう時間をもったり、と学びの週でした。

 

まとめてみたいことは、たくさんありますが、

自分自身が消化することに、時間がかかっています(笑)

 

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ん〜

ひとことで言うと...

 

どんなひとも、自分が自分で選んだことは、

そのひとにとって正しい。

(そして

正しいか、正しくないか、そんな評価すら不要かも?)

 

どんなひとも

自分が生きていくための智慧を、本来もっていて、

その智慧の声を「大したことではない」と、無視しないこと

(多くの場合、その智慧は

あまりに普通すぎたり、一見些細なことにしか見えない場合もあるから)

 

「どうあっても、わたしは現に、こうして生かされている」

これが「今、わたしが生きている」ということへの、答えだということ。

 

「ひとこと」じゃないですね...(笑)↑↑

 

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余談です。

先日、娘(長女)が言いました。

 

彼女いわく

「世の中に、'わたしが生きている意味はなにか'、って

 考えすぎて、悩むひとがいるけど、

 現に息して、こうやって生きているんだから、

考えていてもしゃーないと、思うんやけどな...」

 

彼女は、我が娘ながら、かなり'現実的'な人間で(笑)

およそスピリチュアル的なものには、あまり興味がない(苦笑)

 

彼女なりに、いろいろと悩みなどもあるのでしょうが、

基本、長く悩まないタイプ...のようで。

 

ときおり、彼女らしい淡々とした態度に、

ホッとするわたしです。

 


♪゜・*:.。. .。.:*・♪♪゜・*:.。. .。.:*・♪


 

タイトルが、エラく硬いですね(苦笑)

 

先日、地域の社会福祉協議会が主催する講座(無料)があり、

参加してきました。

 

受講は一般市民が対象の講座で、今回は「うつ病」「統合失調症」の理解、

また、疾患を抱えた方に対して、

周りの方々、地域の方々ができることを考えるための講座でした。

非常にわかりやすかったです。

 

わたしたちカウンセラーも、その学びの中で、

カウンセリングそのものの学びとともに、精神疾患の基礎的な部分は、学びます。

 

しかし、恥ずかしながら、

自分が住んでいる地域の様々な現状や実態、といったものに、わたしはまだまだ勉強不足で、

そのことについて、少しでも情報や学びがあれば、と思い受講させていただきました。

 

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3回ある日程のうち、この記事タイトルの講座名がついたのは、

2日目の内容でした。

 

当日は、

・地域の精神障害を抱える方を支援する施設の所長(ソーシャルワーカー)さん

・統合失調症の患者さん本人

・家族に統合失調症の患者をもつご家族

という、3名の方のナマの声を聞くことができました。

 

わたしは現在、奈良県で暮らしておりますが、

当地は「精神医療」や「精神福祉」に関しては、かなり遅れている地域なのだそうです。

 

なんとなく、自分の住む地域の現状に対しても、うっすらとは感じるものはありましたが、

実際にお話を聞くと、精神疾患に対しての偏見をなくしていくというのは、

大変なことだなぁ…という感想を持ちました。

 

因みに、お話いただいた所長さんの施設では、現在、54名ほどの利用者さんがおられるそうですが、

それに対して、所長さんともう一名のスタッフで、対応していらっしゃるそうなのです!(え~っ)

 

当日の参加者さんの感想でも、

 

「お話を聞かせていただいて、病気に対する理解も少しは進んだ。

 地域で身近に精神疾患を持った方たちがいれば、ぜひ自分ができることをしたい、とは思う。

 しかし、理解者を増やすためには、こういった講座や、

 当事者からの発信がもっとないと、なかなかわかり辛いことですね」

 

というものもありました。

 

お話くださった施設の所長さんは

 

「本当におっしゃる通りです。当事者側からの発信が大切なのも、痛感しています。

 ところが、日々の業務に追われて、なかなか’発信’までは手が回らないのが現状で…」と。

 

それが、現実なんですね…

 

患者ご本人さんや、ご家族の方のナマの声で体験を聞かせていただくと、

聞かせていただいているこちらまで、グッとこみ上げてくるものを感じます。

 

当人であれ、ご家族の方であれ、病気をめぐる辛い体験を、

どのように抱えてきたのか、あるいは今も抱えつつも、生きておられるのか…

本当に困難多いことであろう、と察します。

 

他人の抱えるものを、自分が代わって抱えることはできないけれども、

それでも自分にできることは、なんなのだろう?

 

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お話の中で、

日本社会は「精神疾患」に対して、「身体疾患」より特別視している

このことが、精神疾患への理解を遅らせているのではないか、という指摘がありました。

 

例えば

胃を患いまして、とか

ガンになりまして、というレベルと違って、

 

まだまだ、

うつになりまして、とか

統合失調症になりまして、というのは、

 

他人に知られることに対するハードルが高いし、

理解が得られにくい。

 

しかし、精神疾患にかかったからといって、

〇〇さんの人の存在そのものが、なにか全く別物になるわけではない。

 

他の身体的疾患で、病気になったから、といって

〇〇さんが別人間になってしまった、みたいなことは思わないのと同様、

精神疾患でも、それは変わらない。

 

お話いただいた家族当事者の方は、

「幸いなことに、ご家族を取り巻く友人関係や、友人のつきあいや反応などは、

本人の罹病後も変わらずで、それがとても救いになった」という。

 

また、患者当人の方は、周りのひとに望むこと、として、

「特に身構えることなく、(病気のために)能力がなにかしら劣ってはいるが、

’普通の人’なのだ、ということをわかってほしい」と仰っておられました。

 

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こころの辛さや、悩みを抱えた方々に対して、

カウンセラーができることも、また一部でしかなく、

そのことを自覚しておくことが、とても大切なのかもしれません。

 

しかし

まずは「理解(社会の現状について、疾患について、当事者の想いについて…ETC)」というものは、

どんな立場からのサポートであれ、サポートすることへの入口であり、大きな力になるなぁ、

ということを、この講座を通して感じたことでした。













































最近、「アンガーマネージメント」という言葉をよく聞くようになりました。

この記事をお読みの方の中にも、この言葉を聞いたことがある方もおられるかもしれません。


ひとは生きていてこそ、様々な感情を持つものですが、

その中でも「怒り」の感情は、パワフルでエネルギーがあります。

 

感情にいい、悪いはなくて、

「怒り」という感情も、ひとが生きている中で、

様々な体験をする中で、そして人間関係の中で、

当然、味わったり、持ったりするものです。

 

ただ自分の「怒り」の感情を、上手く取り扱えずに、

自分の心に溜め込んだり、あるいは「怒り」に任せて他人にそのエネルギーを発散すると、

自分自身の心身を害したり、あるいは他者の心身を害する、ということがあります。

 

それが例えば、親子関係では「虐待」という形で現れたり、

友人同士では「いじめ」という形だったり、職場での「パワハラ」という形だったり。

もっと大きな規模であれば民族間紛争、国家間の戦争であったり。

個人レベルでいえば、自分の心身に表れると、うつ病などの精神疾患、極まった形では自殺など。

 

なので、「怒り」という感情(エネルギー)とのつきあい方、

上手に回していくためのコツ、みたいなものがあるのです。

 

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女性ライフサイクル研究所Felian(フェリアン・窪田容子所長)主催の

「虐待防止のグループ援助を学ぶ〜PAM(Peaceful/Parental Anger Management)実践者養成講座」

受講してきました。

 

最近はいろんな研究や、いろんな方法が考えられていて、

PAM(Peaceful/Parental Anger Management)もその1つの方法だと言えます。

 

 

 

このテキストをもとに、特に親子関係において、

親が自分の怒りの感情をどう扱うのか

そのことに関心のある(特に親の立場の)ひとたちが、

グループで学び合うことを、援助する実践者としての研修でした。

 

援助実践者としての研修でしたが、

わたし自身の子育ても振り返りつつ、

あらためて、自分の怒りをどう扱うのか、

PAM(Peaceful/Parental Anger Management)は一つの方法として、

有益な研修だったように思います。

 

 

↓「怒りのプロセス」の図を見てください。

 

(「子どもにキレてしまいそうなとき」より P.42)


PAM(Peaceful/Parental Anger Management)の考え方の基本は、

怒りを持つ人の「過去」について、あれこれその人そのものを分析するのではなくて、

「今ここでできること(行動)」を変えていくことに、注目している点です。

 

自分が、自らの怒り感情に翻弄されるのではなく、

自分の「怒りの表現行動」を変えたり、選択することができる

と考えられています。

 

わたしが面白いと思った視点は、

 

・怒りには「強さの度合い」がある、ということ、自分でそのことに気づくこと

・怒ることによる「目先の利益(メリット)」「長期的影響」

・怒りの行動を変えることで得られる「利益(メリット)」および「長期的影響」

・怒りをエスカレートさせないために、他にどんな行動がとることができるか

怒りを強める「思考・考え方」に気づくこと

・これらのことを、グループでアイディアを出し合っていくこと

 

上記にあげたことを、自分ひとりで「検討」すると、

いいアイディアが浮かんでこなかったり、気づかないこともあります。

 

グループで学び合うことのよさは、他人のアイディアや知恵を借りることができたり、

勇気づけられたり「よし自分もやってみよう」とモチベーションが上がる、という点です。

 

 

PAMがPeaceful Anger Management の略語にあるように、

1人ひとりの心の中の起こる「怒り」という感情を、

適切に取り扱うことによって、

一人の個人が、あるいは親子が、夫婦が、友人同士が、

地域、職場、あるいは民族間、国家間での、

平和で、健康で、幸せな関係性の構築に役立つのではないか、

と、わたしは考えています。

 

今回、友人とともに参加させてもらいましたが、

いつか地域で、今回の学びが必要とされる方に役立つよう、

なんらかの形にできるといいね、と話し合いながら、帰途につきました。

 

 

 



 

 

 

 

 




 

人生、生きていると「いろんなこと」がある

というのは、誰しも同じ。

 

「いろんなこと」が「(自分にとっての)問題」だと認識し、

自分がそれと取り組んでいこう、という意思をもってはじめて、

その問題と取り組んでいくことができます。

 

「問題」だと’認識’する…と言いましたが、

問題として’認識’されるその前に、

これは困ったことだぞ、とか

こんなことが起きてどうしよう、と焦ったり、困惑したり、

そのことが起きることで、

辛かったり、悲しかったり、怒りがわいたり、ぼう然としたり、

…みたいな、自分にとってどちらかというと、

なにかしら、ネガティブな感情や感覚が起こっているはずです。

 

ときには「なにがどう問題なのか」が明確でない

けれど、なんだか生き辛い…しんどい…

「気分」や「身体の不具合」として、表れることもあります。

 

なにが「問題」なのか、

自分はその問題を解決してなにを得たいのか、

解決のための方法や手立てはなにか、

それが明確で、自分でもわかっている

そして、自分も解決したい、解決しよう…という意思があれば、

比較的、コトは簡単です。

 

あとは、自分が決めた自分の選択にしたがって、

なんらかの「行動」するのみ。

 

 (あ、わたしのここで言う「行動」というのは、

  単に何かをする、など、動き回ることだけを言っているのではありません。

  場合によっては「何もしない」という「行動」もありき、なんです)

 

…と、そこまでわかっていても、行動がともなわない、

あるいは、どうもうまく行かない…という場合には、

「行動がともなわないこと」自体が、

すでにその人にとっての「問題」かもしれません。

 

あるいは

最初に考えた方法や手立てに無理があったり、

やり方を変える必要があるのかもしれません。

 

さらに言うなら

これは「問題だ」と思ったコトは、

本当のところは、当人は困っていない、

単に「モンダイにしてみたかっただけ」のコトである

 

あるいは、心の底ではその「問題」とは

向き合いたくない、と思っている…のかもしれません。

 

または

当人にとって、向き合うタイミングではない、

ということもあります。

 

他人から注目してほしい、わたしに気づいてほしい、ということから、

なかには、いわゆる何らかの「問題行動」を起こすことで、

周囲のひとが「問題」だと思う行動をする人がいます。

 

これなどは、周囲のひとは迷惑するけれど、

当人はまったく困っていない…というケースです。

 

が、本当は「問題行動」のその奥に、

当人が(あるいは当人をめぐる周囲のひとも含めて)、

本当は向き合うべき「問題」が隠れているのです。

 

今回の記事タイトルには、

《問題を抱える、ということ》とあげました。

わたしはなにも「敢えて、自分の人生に’問題’を持とう」

と、言いたいわけではないのです。

 

ただ「問題」と感じられることは、多くの場合、

(これはわたしのボイスアートの師匠、まやはるこさんがよく言われる言葉ですが)

避けては通れない道」、わたしがこの世で生きていく上での‘課題’ ’宿題’」みたいなものです。

 

なかには、

こんな’課題’ ‘宿題’なんて欲しくない!って思うような事柄もあると思います。

しかし、そのような事柄に出会っても、

決して、あなたがそもそも悪だから、ということではないのです。

 

’課題’ ’宿題’に取り組んでもよし。

取り組めば、なにかが変わります。

「避けては通れない」この道の向こうに、

あなた本来の、あなたらしい生き方が拓けていると思います。

 

取り組まなくてもよし。

それも、またひとつの生き方です。

ただし「今の自分をよし」と思えないのなら、

それがそのまま、続いていくだけです。

 

取り組むのか、取り組まないのか

そこは、あなたご自身の「意思」と「覚悟」がかかっている

 

そういうことだと、思います。

 

問題を1人で、抱えることはとてもしんどいこと。

ときには

解決に向けて専門家や、あなたを応援してくれる人たちの力を借りて、

自分の行きたい方向に、少しでも近づくこともできます。

 

1人で頑張らなくてもいいのです。

 

ただし、それでもやはり、「問題」を、

自分のこの人生の’課題’’宿題’として、どのように取り組むのか、

あるいは「取り組まない」ことも含めて、

 

究極は、

あなたご自身の意思と「覚悟」がかかっている…

 

最近、わたしは強くそう、思うようになりました。

 

そして

自分の’課題’ ’宿題’と取り組もうと思ったとき。

つまりは、覚悟を決めるときです。

 

そのときは、多くは自分のちからではどうしようもない、

もう逃げられない…とかなり追い詰められたときでも、あるかもしれません。

 

でも自分を捨てないで、自分の課題と向き合おうという意思を持つことは、

非常に尊い勇気をもつことでもあると思います。

 

自分の息の道(呼吸)に還る…

自分の息の道を通して、

自分の’課題’’宿題’どう取り組んでいったらいいのか、

その答えがある、とも思っています。

 

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来る、10月8日(日)今週末になりました。

ボイスアートの創始者、まやはるこさんをお迎えして、

 

【ボイスアートセラピーカウンセリング&ボイスアートグループレッスン@なら】

 

開催いたします。

まだ、お席がご用意可能です。

 

⇒ 開催要項など詳細はコチラをご覧下さい。

⇒ まやはるこさんのボイスアートセラピーカウンセリングについて、わたしの紹介記事はコチラ



 

 



 

ふと、想像してみました。



わたしが生きているのは

コダマする世界


そんな世界に

独り生きているとしたら?


わたしが「あぁ」と発すると

どこからともなく「あぁ」とかえってくる


わたしが「わたしはだれ」と問うと

どこからともなく「わたしはだれ」とかえってくる


わたしが「わたしは苦しい」と呻くと

どこからともなく「わたしは苦しい」とかえってくる


永遠に応(こた)えがない世界

永遠に廻り続ける世界


否定されることはないが

肯定もされない世界


無音の世界だ

固まった世界だ



 

 

 

 

応(こた)えがあるというのは

ちょっとしたズレがあるということだ

不完全さがあるということだ


そのズレに、不完全さに

ひとは「わたしが何者か」を見出し

救いを感じるのではないか


「わたし」とズレて、不完全に応(こた)えてくれる

そういう「あなた」が必要だ

 

 

 

 


 

カウンセリングにおいて、これはカウンセラー側の立場からの話ですが、

「待つ」という行動がとても重要です。

 

敢えて、「待つ」という行動と書きました。

 

一見、待っているだけ、って何もしていないようですが、

カウンセラーは、「どのように」クライエントを待っているのか、

カウンセラーは、自分自身について洞察することが、大切なのだと思います。

 

 



(↑画像にリンクを貼ってあります)

 

ふと、わたしの手元にある本に書かれていた言葉を、

思い出しました。



   「待つ」ことは、けっして「放任」でもなければ、受身的な行為でもない。

  それはぎりぎりの信頼からなりたっているように思われる。

               (「カウンセリングでなにがおこっているのか」 P.58)

 

  次に来るかどうかわからないクライエント、

  このまま返していいのだろうかと悩むクライエントに対しても、

  祈りつつ、「(ともかく)またお待ちしています」と伝える。

  「待つ」ことは、カウンセラーにとって、最後の祈りなのだと思う。(同著 p.62)

 

同著には、カウンセリングの現場で「あう」ということにも触れている。

神田林條治氏の引用から

 

   面接の本質は二人の人間の『出会い』である (同著 p.64)



「待つ」ということも、「あう」ということも、

日常の時間のなかでもあることですが、

 

カウンセリングの場は非日常的といいつつも、

日頃、無意識にやっていることが、非常に研ぎ澄まされた形で見えてくる…


そんな場なのかもしれません。

それはカウンセラーにとっても、

会ってくださるクライエントにとっても。


自分がどのように生きているのか、

そして

どのように生きていきたいのか、


それを確認する場、とも言えると思います。


 

ボイスアートをお伝えしているわたしとしても、

とても関心をもって、読みました。

ご紹介です。

 

ーーーーーーーーーー

 

著者によると、

日本人女性の声が世界各国の女性の声と比較しても、

かなり高いのだそう。

 

そしてそこには、日本社会に根強くある

「女は可愛く、従順であると好かれる」という価値観に、

女性が大きく影響を受けているらしいのです。

 

「声」というのは、言わずもがな

唯一無二のもの。

 

体型も違えば、声帯も1人ひとり違う。

その1人ひとり違った身体があってこその、わたしの声。

 

どんなに「あの人」の声に憧れて、

同じように声を出したくても、

決して同じ声になることはないのです。

 

自分本来の声をなおざりにして、

自分自身の声に耳を傾けることなく、

周りの「価値観」に合わせた声を出していると、

どうなるのでしょうか?

 

自分の心と身体はバラバラ。

疲れる、いつも、なんだか落ち着かない…

 

筆者は、日本の若い女性の上ずったような高い声を

「クレーン声」と名づけています。

 

最近では、若い男性ですら、地に足がついていないような、

この「クレーン声」がよく聞かれる、と述べています。

 

自分がどのような声を出しているのか、そのことに無自覚に、

自分本来と一致しない、他者に合わせた意識から声を出し続けていると、

そのことが、そのひとの生活や生き方、その人の在り方に大きく影響していくでしょう。

 

※ 本書では「声」そのものについて、日本の学校教育の中では取り上げられることがない、

  そのことへの問題も言及しています。

 

本書の中には、筆者が関わったひとで、

自分本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻していった人たちが、

どのように変化していったか、そんな例も取り上げられています。

 

それから、自分本来の声(オーセンティックボイス)に気づき、

取り戻していくのに、最善のトレーナーは自分自身だとも。

 

自分の声は嫌い

録音した自分の声を聞くのは、嫌だ

というひとは、多いです。

わたしもよく、そのような言葉を聞きます。

 

しかし、著者は

まずは「客観的」に、録音した自分の声を聴くことを勧めています。

 

最初は、どんなに「うへっ!!」と自分の声のことを思っても、

どこかに、そのひと本来の声(オーセンティックボイス)で話している部分があって、

それは自分にとって、自然で好ましく思える部分なのだそうです。

 

そのときの、自分の身体の状態やシチュエーションを思い出して、

その声を自分の「耳に記憶」させるのだそうです。

何度も何度も繰り返し、その声を聴き、

聴かなくても、頭の中で思い出せるまで、何度も何度も聴くのだそうです。

 

※ どうしても、自分自身の声が肯定的に捉えられないひとのための練習の仕方も、本書には載ってます。

 

自分の声は、自分の喉が決めるのではなくて

自分の「耳(=聴覚=脳)」なんだそうです!

 

だから「いいな」と思える声(=自分で自分を肯定できる声=本物の声)を

徹底的に自分の耳に定着させること、これがなにより大切。

 

そして、自分本来の「いいな」と思える声は、

これはもう、自分が聴きわけてあげるしかないわけですから、

自分本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻すための、

最善のトレーナーは自分自身、というわけなんです。

 

 

この本を読んでいて、違う視点からですが、

ボイスアートで目指していることとも類似することが多々あるなぁ、

と思いました。

 

録音して、自分の声を聴くのは、

いろんな発見があるかもしれませんね…

 

 自分の本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻したひとは

 声のちからを味方につけることができる。

 

 自分の本物の声を持っている人は、決して自分自身を失うことがありません。

 どこにいようとも地に足をつけてすっくと立ち、そこを自分の居場所にできてしまう。

 どこにいようとも、どんなことが起ころうとも自分の人生を生きることができるのです。

 

 (本文より)

 

ーーーーーーーーーー

 

現代は、とても惑わされることの多い時代だと、感じます。

 

ニュースを聞いても、なにが真実なのか、

わからないことも多い。

 

情報も溢れています。

自分自身を失っていては、溺れてしまいます。

 

こんな時代だからこそ、

自分の声を聴くこと(ボイスアート的には自分の呼吸に還ること)

とても大切なことだと、あらためて思いました。

 

 

 

 
















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カウンセリングルーム樹喜

あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩まないでください。

本来のあなた自身へ還るための一歩が、ここにあります。


電話番号:090-9629-0535

所在地 :奈良県大和郡山市高田町96-7

営業時間:10:00〜19:00

定休日:不定休

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