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奈良県大和郡山市(JR郡山駅すぐ)
  1. セルフケアのために 〜こころの整理に役立つお話
 

セルフケアのために 〜こころの整理に役立つお話

2017/02/17 セルフケアのために 〜こころの整理に役立つお話

日々の心や身体の健康をセルフケアについて、みなさまのお役に立てたら幸いです。

 

○ 呼吸のこと

○ どんなふうに物事を捉えていけばいいか

○ 考え方の整理など

○ 心と健康に関するセミナーや講演会、ワークショップなどの情報



最近、「アンガーマネージメント」という言葉をよく聞くようになりました。

この記事をお読みの方の中にも、この言葉を聞いたことがある方もおられるかもしれません。


ひとは生きていてこそ、様々な感情を持つものですが、

その中でも「怒り」の感情は、パワフルでエネルギーがあります。

 

感情にいい、悪いはなくて、

「怒り」という感情も、ひとが生きている中で、

様々な体験をする中で、そして人間関係の中で、

当然、味わったり、持ったりするものです。

 

ただ自分の「怒り」の感情を、上手く取り扱えずに、

自分の心に溜め込んだり、あるいは「怒り」に任せて他人にそのエネルギーを発散すると、

自分自身の心身を害したり、あるいは他者の心身を害する、ということがあります。

 

それが例えば、親子関係では「虐待」という形で現れたり、

友人同士では「いじめ」という形だったり、職場での「パワハラ」という形だったり。

もっと大きな規模であれば民族間紛争、国家間の戦争であったり。

個人レベルでいえば、自分の心身に表れると、うつ病などの精神疾患、極まった形では自殺など。

 

なので、「怒り」という感情(エネルギー)とのつきあい方、

上手に回していくためのコツ、みたいなものがあるのです。

 

--------------------------------------------------------

 

女性ライフサイクル研究所Felian(フェリアン・窪田容子所長)主催の

「虐待防止のグループ援助を学ぶ〜PAM(Peaceful/Parental Anger Management)実践者養成講座」

受講してきました。

 

最近はいろんな研究や、いろんな方法が考えられていて、

PAM(Peaceful/Parental Anger Management)もその1つの方法だと言えます。

 

 

 

このテキストをもとに、特に親子関係において、

親が自分の怒りの感情をどう扱うのか

そのことに関心のある(特に親の立場の)ひとたちが、

グループで学び合うことを、援助する実践者としての研修でした。

 

援助実践者としての研修でしたが、

わたし自身の子育ても振り返りつつ、

あらためて、自分の怒りをどう扱うのか、

PAM(Peaceful/Parental Anger Management)は一つの方法として、

有益な研修だったように思います。

 

 

↓「怒りのプロセス」の図を見てください。

 

(「子どもにキレてしまいそうなとき」より P.42)


PAM(Peaceful/Parental Anger Management)の考え方の基本は、

怒りを持つ人の「過去」について、あれこれその人そのものを分析するのではなくて、

「今ここでできること(行動)」を変えていくことに、注目している点です。

 

自分が、自らの怒り感情に翻弄されるのではなく、

自分の「怒りの表現行動」を変えたり、選択することができる

と考えられています。

 

わたしが面白いと思った視点は、

 

・怒りには「強さの度合い」がある、ということ、自分でそのことに気づくこと

・怒ることによる「目先の利益(メリット)」「長期的影響」

・怒りの行動を変えることで得られる「利益(メリット)」および「長期的影響」

・怒りをエスカレートさせないために、他にどんな行動がとることができるか

怒りを強める「思考・考え方」に気づくこと

・これらのことを、グループでアイディアを出し合っていくこと

 

上記にあげたことを、自分ひとりで「検討」すると、

いいアイディアが浮かんでこなかったり、気づかないこともあります。

 

グループで学び合うことのよさは、他人のアイディアや知恵を借りることができたり、

勇気づけられたり「よし自分もやってみよう」とモチベーションが上がる、という点です。

 

 

PAMがPeaceful Anger Management の略語にあるように、

1人ひとりの心の中の起こる「怒り」という感情を、

適切に取り扱うことによって、

一人の個人が、あるいは親子が、夫婦が、友人同士が、

地域、職場、あるいは民族間、国家間での、

平和で、健康で、幸せな関係性の構築に役立つのではないか、

と、わたしは考えています。

 

今回、友人とともに参加させてもらいましたが、

いつか地域で、今回の学びが必要とされる方に役立つよう、

なんらかの形にできるといいね、と話し合いながら、帰途につきました。

 

 

 



 

 

 

 

 




 

人生、生きていると「いろんなこと」がある

というのは、誰しも同じ。

 

「いろんなこと」が「(自分にとっての)問題」だと認識し、

自分がそれと取り組んでいこう、という意思をもってはじめて、

その問題と取り組んでいくことができます。

 

「問題」だと’認識’する…と言いましたが、

問題として’認識’されるその前に、

これは困ったことだぞ、とか

こんなことが起きてどうしよう、と焦ったり、困惑したり、

そのことが起きることで、

辛かったり、悲しかったり、怒りがわいたり、ぼう然としたり、

…みたいな、自分にとってどちらかというと、

なにかしら、ネガティブな感情や感覚が起こっているはずです。

 

ときには「なにがどう問題なのか」が明確でない

けれど、なんだか生き辛い…しんどい…

「気分」や「身体の不具合」として、表れることもあります。

 

なにが「問題」なのか、

自分はその問題を解決してなにを得たいのか、

解決のための方法や手立てはなにか、

それが明確で、自分でもわかっている

そして、自分も解決したい、解決しよう…という意思があれば、

比較的、コトは簡単です。

 

あとは、自分が決めた自分の選択にしたがって、

なんらかの「行動」するのみ。

 

 (あ、わたしのここで言う「行動」というのは、

  単に何かをする、など、動き回ることだけを言っているのではありません。

  場合によっては「何もしない」という「行動」もありき、なんです)

 

…と、そこまでわかっていても、行動がともなわない、

あるいは、どうもうまく行かない…という場合には、

「行動がともなわないこと」自体が、

すでにその人にとっての「問題」かもしれません。

 

あるいは

最初に考えた方法や手立てに無理があったり、

やり方を変える必要があるのかもしれません。

 

さらに言うなら

これは「問題だ」と思ったコトは、

本当のところは、当人は困っていない、

単に「モンダイにしてみたかっただけ」のコトである

 

あるいは、心の底ではその「問題」とは

向き合いたくない、と思っている…のかもしれません。

 

または

当人にとって、向き合うタイミングではない、

ということもあります。

 

他人から注目してほしい、わたしに気づいてほしい、ということから、

なかには、いわゆる何らかの「問題行動」を起こすことで、

周囲のひとが「問題」だと思う行動をする人がいます。

 

これなどは、周囲のひとは迷惑するけれど、

当人はまったく困っていない…というケースです。

 

が、本当は「問題行動」のその奥に、

当人が(あるいは当人をめぐる周囲のひとも含めて)、

本当は向き合うべき「問題」が隠れているのです。

 

今回の記事タイトルには、

《問題を抱える、ということ》とあげました。

わたしはなにも「敢えて、自分の人生に’問題’を持とう」

と、言いたいわけではないのです。

 

ただ「問題」と感じられることは、多くの場合、

(これはわたしのボイスアートの師匠、まやはるこさんがよく言われる言葉ですが)

避けては通れない道」、わたしがこの世で生きていく上での‘課題’ ’宿題’」みたいなものです。

 

なかには、

こんな’課題’ ‘宿題’なんて欲しくない!って思うような事柄もあると思います。

しかし、そのような事柄に出会っても、

決して、あなたがそもそも悪だから、ということではないのです。

 

’課題’ ’宿題’に取り組んでもよし。

取り組めば、なにかが変わります。

「避けては通れない」この道の向こうに、

あなた本来の、あなたらしい生き方が拓けていると思います。

 

取り組まなくてもよし。

それも、またひとつの生き方です。

ただし「今の自分をよし」と思えないのなら、

それがそのまま、続いていくだけです。

 

取り組むのか、取り組まないのか

そこは、あなたご自身の「意思」と「覚悟」がかかっている

 

そういうことだと、思います。

 

問題を1人で、抱えることはとてもしんどいこと。

ときには

解決に向けて専門家や、あなたを応援してくれる人たちの力を借りて、

自分の行きたい方向に、少しでも近づくこともできます。

 

1人で頑張らなくてもいいのです。

 

ただし、それでもやはり、「問題」を、

自分のこの人生の’課題’’宿題’として、どのように取り組むのか、

あるいは「取り組まない」ことも含めて、

 

究極は、

あなたご自身の意思と「覚悟」がかかっている…

 

最近、わたしは強くそう、思うようになりました。

 

そして

自分の’課題’ ’宿題’と取り組もうと思ったとき。

つまりは、覚悟を決めるときです。

 

そのときは、多くは自分のちからではどうしようもない、

もう逃げられない…とかなり追い詰められたときでも、あるかもしれません。

 

でも自分を捨てないで、自分の課題と向き合おうという意思を持つことは、

非常に尊い勇気をもつことでもあると思います。

 

自分の息の道(呼吸)に還る…

自分の息の道を通して、

自分の’課題’’宿題’どう取り組んでいったらいいのか、

その答えがある、とも思っています。

 

-----------------------------------------------------

来る、10月8日(日)今週末になりました。

ボイスアートの創始者、まやはるこさんをお迎えして、

 

【ボイスアートセラピーカウンセリング&ボイスアートグループレッスン@なら】

 

開催いたします。

まだ、お席がご用意可能です。

 

⇒ 開催要項など詳細はコチラをご覧下さい。

⇒ まやはるこさんのボイスアートセラピーカウンセリングについて、わたしの紹介記事はコチラ



 

 



 

ふと、想像してみました。



わたしが生きているのは

コダマする世界


そんな世界に

独り生きているとしたら?


わたしが「あぁ」と発すると

どこからともなく「あぁ」とかえってくる


わたしが「わたしはだれ」と問うと

どこからともなく「わたしはだれ」とかえってくる


わたしが「わたしは苦しい」と呻くと

どこからともなく「わたしは苦しい」とかえってくる


永遠に応(こた)えがない世界

永遠に廻り続ける世界


否定されることはないが

肯定もされない世界


無音の世界だ

固まった世界だ



 

 

 

 

応(こた)えがあるというのは

ちょっとしたズレがあるということだ

不完全さがあるということだ


そのズレに、不完全さに

ひとは「わたしが何者か」を見出し

救いを感じるのではないか


「わたし」とズレて、不完全に応(こた)えてくれる

そういう「あなた」が必要だ

 

 

 

 


 

ふと、想像してみました。



わたしが生きているのは

コダマする世界


そんな世界に

独り生きているとしたら?


わたしが「あぁ」と発すると

どこからともなく「あぁ」とかえってくる


わたしが「わたしはだれ」と問うと

どこからともなく「わたしはだれ」とかえってくる


わたしが「わたしは苦しい」と呻くと

どこからともなく「わたしは苦しい」とかえってくる


永遠に応(こた)えがない世界

永遠に廻り続ける世界


否定されることはないが

肯定もされない世界


無音の世界だ

固まった世界だ



 

 

 

 

応(こた)えがあるというのは

ちょっとしたズレがあるということだ

不完全さがあるということだ


そのズレに、不完全さに

ひとは「わたしが何者か」を見出し

救いを感じるのではないか


「わたし」とズレて、不完全に応(こた)えてくれる

そういう「あなた」が必要だ

 

 

 

 


 

カウンセリングにおいて、これはカウンセラー側の立場からの話ですが、

「待つ」という行動がとても重要です。

 

敢えて、「待つ」という行動と書きました。

 

一見、待っているだけ、って何もしていないようですが、

カウンセラーは、「どのように」クライエントを待っているのか、

カウンセラーは、自分自身について洞察することが、大切なのだと思います。

 

 



(↑画像にリンクを貼ってあります)

 

ふと、わたしの手元にある本に書かれていた言葉を、

思い出しました。



   「待つ」ことは、けっして「放任」でもなければ、受身的な行為でもない。

  それはぎりぎりの信頼からなりたっているように思われる。

               (「カウンセリングでなにがおこっているのか」 P.58)

 

  次に来るかどうかわからないクライエント、

  このまま返していいのだろうかと悩むクライエントに対しても、

  祈りつつ、「(ともかく)またお待ちしています」と伝える。

  「待つ」ことは、カウンセラーにとって、最後の祈りなのだと思う。(同著 p.62)

 

同著には、カウンセリングの現場で「あう」ということにも触れている。

神田林條治氏の引用から

 

   面接の本質は二人の人間の『出会い』である (同著 p.64)



「待つ」ということも、「あう」ということも、

日常の時間のなかでもあることですが、

 

カウンセリングの場は非日常的といいつつも、

日頃、無意識にやっていることが、非常に研ぎ澄まされた形で見えてくる…


そんな場なのかもしれません。

それはカウンセラーにとっても、

会ってくださるクライエントにとっても。


自分がどのように生きているのか、

そして

どのように生きていきたいのか、


それを確認する場、とも言えると思います。


 

ボイスアートをお伝えしているわたしとしても、

とても関心をもって、読みました。

ご紹介です。

 

ーーーーーーーーーー

 

著者によると、

日本人女性の声が世界各国の女性の声と比較しても、

かなり高いのだそう。

 

そしてそこには、日本社会に根強くある

「女は可愛く、従順であると好かれる」という価値観に、

女性が大きく影響を受けているらしいのです。

 

「声」というのは、言わずもがな

唯一無二のもの。

 

体型も違えば、声帯も1人ひとり違う。

その1人ひとり違った身体があってこその、わたしの声。

 

どんなに「あの人」の声に憧れて、

同じように声を出したくても、

決して同じ声になることはないのです。

 

自分本来の声をなおざりにして、

自分自身の声に耳を傾けることなく、

周りの「価値観」に合わせた声を出していると、

どうなるのでしょうか?

 

自分の心と身体はバラバラ。

疲れる、いつも、なんだか落ち着かない…

 

筆者は、日本の若い女性の上ずったような高い声を

「クレーン声」と名づけています。

 

最近では、若い男性ですら、地に足がついていないような、

この「クレーン声」がよく聞かれる、と述べています。

 

自分がどのような声を出しているのか、そのことに無自覚に、

自分本来と一致しない、他者に合わせた意識から声を出し続けていると、

そのことが、そのひとの生活や生き方、その人の在り方に大きく影響していくでしょう。

 

※ 本書では「声」そのものについて、日本の学校教育の中では取り上げられることがない、

  そのことへの問題も言及しています。

 

本書の中には、筆者が関わったひとで、

自分本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻していった人たちが、

どのように変化していったか、そんな例も取り上げられています。

 

それから、自分本来の声(オーセンティックボイス)に気づき、

取り戻していくのに、最善のトレーナーは自分自身だとも。

 

自分の声は嫌い

録音した自分の声を聞くのは、嫌だ

というひとは、多いです。

わたしもよく、そのような言葉を聞きます。

 

しかし、著者は

まずは「客観的」に、録音した自分の声を聴くことを勧めています。

 

最初は、どんなに「うへっ!!」と自分の声のことを思っても、

どこかに、そのひと本来の声(オーセンティックボイス)で話している部分があって、

それは自分にとって、自然で好ましく思える部分なのだそうです。

 

そのときの、自分の身体の状態やシチュエーションを思い出して、

その声を自分の「耳に記憶」させるのだそうです。

何度も何度も繰り返し、その声を聴き、

聴かなくても、頭の中で思い出せるまで、何度も何度も聴くのだそうです。

 

※ どうしても、自分自身の声が肯定的に捉えられないひとのための練習の仕方も、本書には載ってます。

 

自分の声は、自分の喉が決めるのではなくて

自分の「耳(=聴覚=脳)」なんだそうです!

 

だから「いいな」と思える声(=自分で自分を肯定できる声=本物の声)を

徹底的に自分の耳に定着させること、これがなにより大切。

 

そして、自分本来の「いいな」と思える声は、

これはもう、自分が聴きわけてあげるしかないわけですから、

自分本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻すための、

最善のトレーナーは自分自身、というわけなんです。

 

 

この本を読んでいて、違う視点からですが、

ボイスアートで目指していることとも類似することが多々あるなぁ、

と思いました。

 

録音して、自分の声を聴くのは、

いろんな発見があるかもしれませんね…

 

 自分の本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻したひとは

 声のちからを味方につけることができる。

 

 自分の本物の声を持っている人は、決して自分自身を失うことがありません。

 どこにいようとも地に足をつけてすっくと立ち、そこを自分の居場所にできてしまう。

 どこにいようとも、どんなことが起ころうとも自分の人生を生きることができるのです。

 

 (本文より)

 

ーーーーーーーーーー

 

現代は、とても惑わされることの多い時代だと、感じます。

 

ニュースを聞いても、なにが真実なのか、

わからないことも多い。

 

情報も溢れています。

自分自身を失っていては、溺れてしまいます。

 

こんな時代だからこそ、

自分の声を聴くこと(ボイスアート的には自分の呼吸に還ること)

とても大切なことだと、あらためて思いました。

 

 

 

 

















 

ボイスアートをお伝えしているわたしとしても、

とても関心をもって、読みました。

ご紹介です。

 

ーーーーーーーーーー

 

著者によると、

日本人女性の声が世界各国の女性の声と比較しても、

かなり高いのだそう。

 

そしてそこには、日本社会に根強くある

「女は可愛く、従順であると好かれる」という価値観に、

女性が大きく影響を受けているらしいのです。

 

「声」というのは、言わずもがな

唯一無二のもの。

 

体型も違えば、声帯も1人ひとり違う。

その1人ひとり違った身体があってこその、わたしの声。

 

どんなに「あの人」の声に憧れて、

同じように声を出したくても、

決して同じ声になることはないのです。

 

自分本来の声をなおざりにして、

自分自身の声に耳を傾けることなく、

周りの「価値観」に合わせた声を出していると、

どうなるのでしょうか?

 

自分の心と身体はバラバラ。

疲れる、いつも、なんだか落ち着かない…

 

筆者は、日本の若い女性の上ずったような高い声を

「クレーン声」と名づけています。

 

最近では若い男性ですら、地に足がついていないような、

この「クレーン声」がよく聞かれる、と述べています。

 

自分がどのような声を出しているのか、そのことに無自覚に、

自分本来と一致しない、他者に合わせた意識から声を出し続けていると、

そのことが、そのひとの生活や生き方、その人の在り方に大きく影響していくでしょう。

 

※ 本書では「声」そのものについて、日本の学校教育の中では取り上げられることがない、

  そのことへの問題も言及しています。

 

本書の中には、筆者が関わったひとで、

自分本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻していった人たちが、

どのように変化していったか、そんな例も取り上げられています。

 

それから、自分本来の声(オーセンティックボイス)に気づき、

取り戻していくのに、最善のトレーナーは自分自身だとも。

 

自分の声は嫌い

録音した自分の声を聞くのは、嫌だ

というひとは、多いです。

わたしもよく、そのような言葉を聞きます。

 

しかし、著者は

まずは「客観的」に、録音した自分の声を聴くことを勧めています。

 

最初は、どんなに「うへっ!!」と自分の声のことを思っても、

どこかに、そのひと本来の声(オーセンティックボイス)で話している部分があって、

それは自分にとって、自然で好ましく思える部分なのだそうです。

 

そのときの、自分の身体の状態やシチュエーションを思い出して、

その声を自分の「耳に記憶」させるのだそうです。

何度も何度も繰り返し、その声を聴き、

聴かなくても、頭の中で思い出せるまで、何度も何度も聴くのだそうです。

 

※ どうしても、自分自身の声が肯定的に捉えられないひとのための練習の仕方も、本書には載ってます。

 

自分の声は、自分の喉が決めるのではなくて

自分の「耳(=聴覚=脳)」なんだそうです!

 

だから「いいな」と思える声(=自分で自分を肯定できる声=本物の声)を

徹底的に自分の耳に定着させること、これがなにより大切。

 

そして、自分本来の「いいな」と思える声は、

これはもう、自分が聴きわけてあげるしかないわけですから、

自分本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻すための、

最善のトレーナーは自分自身、というわけなんです。

 

 

この本を読んでいて、違う視点からですが、

ボイスアートで目指していることとも類似することが多々あるなぁ、

と思いました。

 

録音して、自分の声を聴くのは、

いろんな発見があるかもしれませんね…

 

 自分の本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻したひとは

 声のちからを味方につけることができる。

 

 自分の本物の声を持っている人は、決して自分自身を失うことがありません。

 どこにいようとも地に足をつけてすっくと立ち、そこを自分の居場所にできてしまう。

 どこにいようとも、どんなことが起ころうとも自分の人生を生きることができるのです。

 

 (本文より)

 

ーーーーーーーーーー

 

現代は、とても惑わされることの多い時代だと、感じます。

 

ニュースを聞いても、なにが真実なのか、

わからないことも多い。

 

情報も溢れています。

自分自身を失っていては、溺れてしまいます。

 

こんな時代だからこそ、

自分の声を聴くこと(ボイスアート的には自分の呼吸に還ること)

とても大切なことだと、あらためて思いました。

 

 

 

 























クライエントさんのお話をうかがっていると、

ときおりこんな言葉が出てきます。


  メンタル弱いから、強くなりたい

  メンタル弱い自分は、ダメ


 

 

う〜ん


わたしは決して、

強靭な精神力の持ち主、メンタル強いとは言い難い…


実は

わたしなりの人生の節目で、何回か

心身症状が出るくらいまで、落ち込んでウツになりました。


わたしは、「頑張れば…努力すればなんでもできる」と、

自分で自分に拍車をかけて、

頑張りすぎる傾向があったんだと思います。


「やればできる」は

母がわたしに刷り込んできた言葉でした。


ひとって「やればできる」こともあれば

ときに、どんなに頑張ったって「できないこと」だってある、ってこと。

自分の思い通りにならないことがある、ってこと。



最近、思うのです。


落ち込んでも、

(あ、最近はそんな風に落ち込むことは、少なくなりましたが)

こんな自分はあかんなぁ、みたいに思うことがあっても、


また

なんか上手くいかない、とかね、


あ〜

これ、どうなっちゃうんだろう、とか

不安に駆られたり、とか


いろいろ思うこともあるわけですが


そんなときの

自分とのつきあい方が、ちょっと上手くなったかな


メンタル、弱くてもいいんじゃない?


大事なのは、自分で自分に

✖(バツ)をつけないことだと、思うのね。


「わたしの応援団」はたくさんいてくれたら、

それはそれで、幸いなことだけど、


一番の「わたしの応援団」は

ワタシだと、思うから。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

どんなことでも「はじめて」って、緊張するもんです。

 

誰にでも「はじめて」はあるわけで、

その「はじめて」は一回しかない時間だから、

「はじめて」だからこそ、体験することもあるわけで、

そういう意味では、とっても貴重な「はじめて」

 

ここまで年齢を重ねてきて、久しぶりに「はじめて」の時間を終えて、

今日は1日、終えたあとの時間をじっくり味わいました。

 

そんななかでも、わたしにとってシンクロして起こった出来事があって、

あ〜、やっぱりここは大切に押さえておかなきゃね...って思ったことがあるので、

少し書いてみたいと思います。

 

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生きていると、自分を取り巻くひとたちと、いろんな事柄も起きたり、

それはいい思いも、苦しい思いも含めて、

ひとが生きているだから、当たり前ね。

 

ただ...

あ!なんだ、これ?

どう、対応しよう?って思ったとき。

 

あるいは...

その行動の指針になること、っていうのか、

どんな風にわたしの心を整理したらいいんだろう、って思ったとき。

 

まず

自分の言動を一致させること。

 

(自分の心で思っていることと、

  口に出して言うことと、行動が一致しているか?)

 

 ※自分なりの理由や納得のもとに、一致していないことを意識しつつ、

   状況を考慮して言動不一致なことを敢えてする、ということはあるかもしれませんが。

 

↑自分の「心のクセ」として、無意識に言動不一致なことをすると

(例えば、礼儀としてはこうすべき、とか、他人からよく見られたいから、とか)

多分、ほかでもない自分の心にモヤモヤしたものが残る...ハズ。

 

ただし

「自分の心で感じていること」は

 頭で考えて「こうあるべき」というようなことではありません。

 

ある体験を前にして、自分が「素直に」こんな風に感じた...

それに対して、自分をジャッジすることなく、ただただ自分の心とまっすぐ向き合ってみる...

このことがキモなんですが。

(ここをスルーすると、自分が見えなくなります)

 

その上で

今、自分が体験していることで

自分がムリをしていたり、自分の心に背いて、

 

「みんながそんな風にしていることだから」

とか

「社会通例的にはこんなふうにするでしょ」

とか

「常識的には(これ!結構キケン!)こうだから」

とか

「他人に嫌われるの、嫌だから」

とか

 

結局はそういうことを理由にして、

とりあえず無難にすまそう、としていることはないでしょうか?

 

それより

今、わたしの心が1番欲していること、

今、わたしの心が1番喜ぶこと、

今、わたしの心が無理せず、安心していられること、

 

それはなんだろう?

そう

自分に問いかけて見て欲しい...

 

そうすれば、自ずと自分が取る道って

見えてくるのではないかな。

 

自分の心の庭を守り、耕し、豊穣にする、ってこと。

 

それは

他人に対して、頑なに心の扉を立てて閉ざす、

ということとは、違う。

 

自分の心の「わたしは〇〇したい」という声がちゃんと聴こえているから、

不必要なときは、他人が自分の心の庭にみだりに入ることを認めない...

 

とても、自分を大切にするから、の行い。

 

それは

他人に対する恐れや迎合から、ではなくて、

まずは自分の心の声を聴く...そこからはじまる行い。

 

------------------------------------

 

先日のライブで、わたしは初めて、ひと前で歌を歌いました。

(カラオケは別にして、ね)

 

わたしの歌の技術はさておき(苦笑)、

(すみません...お付き合い下さった

ライブご参加のみなさま、ありがとうございます!)

あの有名な「ROSE」という歌を、歌いました。

 

シンプルな歌なのですが、

メッセージがその時々の、そのひとの置かれた状況によって、

深く伝わる歌だと思います。

 

下手くそでも、歌いたかったのです。

わたしのボイスアートの師匠、まやはるこさんの日本語訳です。

 

最近のわたしに1番響くところは、2番の部分です。

わたしは、この歌詞に助けられてきましたから...

 


傷つくこと 怖れて

ダンスを踊れない

 

夢持つこと 怖れて

チャンスをつかめない

 

うばわれると思うから

与えられない

 

魂が怖れていては

生きる意味 学べない

 

 

 

歌のちから、って

大きいですね...

 

あらためて

そのことを感じています。

------------------------------------

 

わたしの「初めて」の時間を終えて、

そのひとなりの、さまざまな形でわたしと関わってくださった方、

お一人おひとりのことに想いを馳せながら、

 

わたし自身の「心の庭」を想うと同時に、

みなさまの「心の庭」が豊かなものであればいいなぁ、と

心から願いながら、つらつらといろんなことを思った1日でした。











 

ひとは生きていく上で、さまざまな人間関係において、

「許せない」という、強い感情に見舞われる経験をすることがある。

 

クライエントさんの話を聴いていても、

友人の話を聴いていても、

また、わたし自身の経験においても、

「許せない」想いをする経験は、珍しいことではない。

 

そんなことを考えていたら、

この本に出逢った。

著者は精神科医だが、書かれている内容は学術的なことではなく、

さらっと読める。

 

ラカン派の精神分析を学んだ、ということで、

精神分析の概念を使って説明している箇所もあるが。

 

著者自身が、祖母や母を「許せない」と強く思うことで、

悩んでいることが、本書を記すきっかけになっているようだ。

 

目次は

 

第1章 他人を許せなくて悩んでいる人たち

第2章 なぜ「許せない」のか?

第3章 「許せない」を引きずる人の特徴

第4章 「許せない」という病から抜け出すための4つのステップ

第5章 「許せない」自分を許すために

 

という章立てになっている。


---------------------------------

文中に興味深い例え話があった(本書 58頁)

 

夜道、強盗からバックを奪われた際に、ナイフで腕を傷つけられたとして、

傷つけた強盗が、あなたを治療してくれるだろうか?

 

否。

 

軽ければ、自分で応急処置もできようが、

重症の場合は、そんなわけにもいかず、

治療してくれるのは医師や看護婦であり、強盗ではない。

 

同じく、心に傷を受けた場合も、

あなたに傷を与えた当の相手が心の傷を癒してくれるわけではない。

 

相手の謝罪や許しを乞うのを待っていて、自分が許すか許さないかを決めるのは、

宝くじに当たるのを待っているようなもの。

それでは、自分の人生は相手次第ということになる。

 

それより、相手がどうあろうと、

自分の人生を自分の手に取り戻し、充実した人生を送ることのほうが、

相手への「最大の復讐」になるのではないか…

 

※実は、ここで「最大の復讐」という表現自体が、

 まだ、相手へのこだわりがあるようで、「復讐」という言葉に違和感を感じたが…

 

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本書で提唱されている「許せない」から抜け出す4つのステップ、

というのは、なるほどなと思わせるところがある。

 

「許せない」と思うことの裏側には、

多くは、自分が傷つく体験がある。

 

だから、まずは

 @「傷つき」を認識すること。

 

次に

 A「傷つき」からくる

   自らの心に沸いた「怒り」の感情を受け入れること。

        (感情は「怒り」だけではないかもしれない。「悲しみ」「妬み」「失望」「驚愕」…)

 

これらが「十分にできたら」(⬅これが結構、重要だとわたしは思うので、この言葉はわたしの追記)

  B相手を「理解しよう」とすること。

  (これは単に、相手を「理解」しようとするのであって、

  相手があなたにしたことを肯定したり、相手に共感できるようになる必要はない)

 

そして

  C「許せない」関係にけりをつける。

 

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わたし自身にも経験があるが、

 

@、Aステップが十分に行われていない状態で、

安易に「許そう」としたり、BやCのことを行おうとすると、

 

返って、心身に負担がかかる。

無理にしなくていい、と思う。

 

十分に、傷つけられた自分を労わり、

十分に、怒りを表現するのがいい。

 

傷つきや怒りが大きくて、

自分のちからだけでは手に負えなければ、

安心できる場所、あなたをサポートし、

味方になってくれる他者がいるところで、行うのがいい場合もある。

 

Bの、相手を「理解しよう」とすることは、

結局は、「自分を知る」ことにも繋がる作業である。

 

他人を責めたり、逆に自分を責めたりしないで、

淡々と、客観的に見られるようになったら、

かなり、あなたの心の傷は回復してきている、と言える。

 

実際には、すんなりと@→A→Bと進まない場合も多いと思う。

行きつもどりつしながら、

 

しかし

「自分の人生を自分の手に取り戻す」という意思を持つ限り、

 

「時間薬」「日にち薬」のちからも借りながら、

気がつけばC「許せない」関係にケリがついている…

 

むしろ

Cは最後のステップというより、

 

「許せない」関係にケリをつけるという意思を、

自分がもって望むのか、望まないのか。

 

そこなんだろうなぁ、とわたしは思っている。

 

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「許せない」心でいる、というのは

ものすごい心のエネルギーを使うことでもある

 

そして、多分…

 

そのような心のエネルギーの使い方は、

究極は、自分の心を蝕んでいくのではないか、と。

 

「許せない」関係にケリがつく、と

心がこんなにも軽やかになるものか、

とも、わたしは感じている。

 

 

 

 

 













 

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