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奈良県大和郡山市(JR郡山駅すぐ)
  1. セルフケアのために 〜こころの整理に役立つお話
 

セルフケアのために 〜こころの整理に役立つお話

2017/02/17 セルフケアのために 〜こころの整理に役立つお話

日々の心や身体の健康をセルフケアについて、みなさまのお役に立てたら幸いです。

 

○ 呼吸のこと

○ どんなふうに物事を捉えていけばいいか

○ 考え方の整理など

○ 心と健康に関するセミナーや講演会、ワークショップなどの情報



 

ふと、想像してみました。



わたしが生きているのは

コダマする世界


そんな世界に

独り生きているとしたら?


わたしが「あぁ」と発すると

どこからともなく「あぁ」とかえってくる


わたしが「わたしはだれ」と問うと

どこからともなく「わたしはだれ」とかえってくる


わたしが「わたしは苦しい」と呻くと

どこからともなく「わたしは苦しい」とかえってくる


永遠に応(こた)えがない世界

永遠に廻り続ける世界


否定されることはないが

肯定もされない世界


無音の世界だ

固まった世界だ



 

 

 

 

応(こた)えがあるというのは

ちょっとしたズレがあるということだ

不完全さがあるということだ


そのズレに、不完全さに

ひとは「わたしが何者か」を見出し

救いを感じるのではないか


「わたし」とズレて、不完全に応(こた)えてくれる

そういう「あなた」が必要だ

 

 

 

 


 

カウンセリングにおいて、これはカウンセラー側の立場からの話ですが、

「待つ」という行動がとても重要です。

 

敢えて、「待つ」という行動と書きました。

 

一見、待っているだけ、って何もしていないようですが、

カウンセラーは、「どのように」クライエントを待っているのか、

カウンセラーは、自分自身について洞察することが、大切なのだと思います。

 

 



(↑画像にリンクを貼ってあります)

 

ふと、わたしの手元にある本に書かれていた言葉を、

思い出しました。



   「待つ」ことは、けっして「放任」でもなければ、受身的な行為でもない。

  それはぎりぎりの信頼からなりたっているように思われる。

               (「カウンセリングでなにがおこっているのか」 P.58)

 

  次に来るかどうかわからないクライエント、

  このまま返していいのだろうかと悩むクライエントに対しても、

  祈りつつ、「(ともかく)またお待ちしています」と伝える。

  「待つ」ことは、カウンセラーにとって、最後の祈りなのだと思う。(同著 p.62)

 

同著には、カウンセリングの現場で「あう」ということにも触れている。

神田林條治氏の引用から

 

   面接の本質は二人の人間の『出会い』である (同著 p.64)



「待つ」ということも、「あう」ということも、

日常の時間のなかでもあることですが、

 

カウンセリングの場は非日常的といいつつも、

日頃、無意識にやっていることが、非常に研ぎ澄まされた形で見えてくる…


そんな場なのかもしれません。

それはカウンセラーにとっても、

会ってくださるクライエントにとっても。


自分がどのように生きているのか、

そして

どのように生きていきたいのか、


それを確認する場、とも言えると思います。


 

ボイスアートをお伝えしているわたしとしても、

とても関心をもって、読みました。

ご紹介です。

 

ーーーーーーーーーー

 

著者によると、

日本人女性の声が世界各国の女性の声と比較しても、

かなり高いのだそう。

 

そしてそこには、日本社会に根強くある

「女は可愛く、従順であると好かれる」という価値観に、

女性が大きく影響を受けているらしいのです。

 

「声」というのは、言わずもがな

唯一無二のもの。

 

体型も違えば、声帯も1人ひとり違う。

その1人ひとり違った身体があってこその、わたしの声。

 

どんなに「あの人」の声に憧れて、

同じように声を出したくても、

決して同じ声になることはないのです。

 

自分本来の声をなおざりにして、

自分自身の声に耳を傾けることなく、

周りの「価値観」に合わせた声を出していると、

どうなるのでしょうか?

 

自分の心と身体はバラバラ。

疲れる、いつも、なんだか落ち着かない…

 

筆者は、日本の若い女性の上ずったような高い声を

「クレーン声」と名づけています。

 

最近では、若い男性ですら、地に足がついていないような、

この「クレーン声」がよく聞かれる、と述べています。

 

自分がどのような声を出しているのか、そのことに無自覚に、

自分本来と一致しない、他者に合わせた意識から声を出し続けていると、

そのことが、そのひとの生活や生き方、その人の在り方に大きく影響していくでしょう。

 

※ 本書では「声」そのものについて、日本の学校教育の中では取り上げられることがない、

  そのことへの問題も言及しています。

 

本書の中には、筆者が関わったひとで、

自分本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻していった人たちが、

どのように変化していったか、そんな例も取り上げられています。

 

それから、自分本来の声(オーセンティックボイス)に気づき、

取り戻していくのに、最善のトレーナーは自分自身だとも。

 

自分の声は嫌い

録音した自分の声を聞くのは、嫌だ

というひとは、多いです。

わたしもよく、そのような言葉を聞きます。

 

しかし、著者は

まずは「客観的」に、録音した自分の声を聴くことを勧めています。

 

最初は、どんなに「うへっ!!」と自分の声のことを思っても、

どこかに、そのひと本来の声(オーセンティックボイス)で話している部分があって、

それは自分にとって、自然で好ましく思える部分なのだそうです。

 

そのときの、自分の身体の状態やシチュエーションを思い出して、

その声を自分の「耳に記憶」させるのだそうです。

何度も何度も繰り返し、その声を聴き、

聴かなくても、頭の中で思い出せるまで、何度も何度も聴くのだそうです。

 

※ どうしても、自分自身の声が肯定的に捉えられないひとのための練習の仕方も、本書には載ってます。

 

自分の声は、自分の喉が決めるのではなくて

自分の「耳(=聴覚=脳)」なんだそうです!

 

だから「いいな」と思える声(=自分で自分を肯定できる声=本物の声)を

徹底的に自分の耳に定着させること、これがなにより大切。

 

そして、自分本来の「いいな」と思える声は、

これはもう、自分が聴きわけてあげるしかないわけですから、

自分本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻すための、

最善のトレーナーは自分自身、というわけなんです。

 

 

この本を読んでいて、違う視点からですが、

ボイスアートで目指していることとも類似することが多々あるなぁ、

と思いました。

 

録音して、自分の声を聴くのは、

いろんな発見があるかもしれませんね…

 

 自分の本来の声(オーセンティックボイス)を取り戻したひとは

 声のちからを味方につけることができる。

 

 自分の本物の声を持っている人は、決して自分自身を失うことがありません。

 どこにいようとも地に足をつけてすっくと立ち、そこを自分の居場所にできてしまう。

 どこにいようとも、どんなことが起ころうとも自分の人生を生きることができるのです。

 

 (本文より)

 

ーーーーーーーーーー

 

現代は、とても惑わされることの多い時代だと、感じます。

 

ニュースを聞いても、なにが真実なのか、

わからないことも多い。

 

情報も溢れています。

自分自身を失っていては、溺れてしまいます。

 

こんな時代だからこそ、

自分の声を聴くこと(ボイスアート的には自分の呼吸に還ること)

とても大切なことだと、あらためて思いました。

 

 

 

 























クライエントさんのお話をうかがっていると、

ときおりこんな言葉が出てきます。


  メンタル弱いから、強くなりたい

  メンタル弱い自分は、ダメ


 

 

う〜ん


わたしは決して、

強靭な精神力の持ち主、メンタル強いとは言い難い…


実は

わたしなりの人生の節目で、何回か

心身症状が出るくらいまで、落ち込んでウツになりました。


わたしは、「頑張れば…努力すればなんでもできる」と、

自分で自分に拍車をかけて、

頑張りすぎる傾向があったんだと思います。


「やればできる」は

母がわたしに刷り込んできた言葉でした。


ひとって「やればできる」こともあれば

ときに、どんなに頑張ったって「できないこと」だってある、ってこと。

自分の思い通りにならないことがある、ってこと。



最近、思うのです。


落ち込んでも、

(あ、最近はそんな風に落ち込むことは、少なくなりましたが)

こんな自分はあかんなぁ、みたいに思うことがあっても、


また

なんか上手くいかない、とかね、


あ〜

これ、どうなっちゃうんだろう、とか

不安に駆られたり、とか


いろいろ思うこともあるわけですが


そんなときの

自分とのつきあい方が、ちょっと上手くなったかな


メンタル、弱くてもいいんじゃない?


大事なのは、自分で自分に

✖(バツ)をつけないことだと、思うのね。


「わたしの応援団」はたくさんいてくれたら、

それはそれで、幸いなことだけど、


一番の「わたしの応援団」は

ワタシだと、思うから。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

どんなことでも「はじめて」って、緊張するもんです。

 

誰にでも「はじめて」はあるわけで、

その「はじめて」は一回しかない時間だから、

「はじめて」だからこそ、体験することもあるわけで、

そういう意味では、とっても貴重な「はじめて」

 

ここまで年齢を重ねてきて、久しぶりに「はじめて」の時間を終えて、

今日は1日、終えたあとの時間をじっくり味わいました。

 

そんななかでも、わたしにとってシンクロして起こった出来事があって、

あ〜、やっぱりここは大切に押さえておかなきゃね...って思ったことがあるので、

少し書いてみたいと思います。

 

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生きていると、自分を取り巻くひとたちと、いろんな事柄も起きたり、

それはいい思いも、苦しい思いも含めて、

ひとが生きているだから、当たり前ね。

 

ただ...

あ!なんだ、これ?

どう、対応しよう?って思ったとき。

 

あるいは...

その行動の指針になること、っていうのか、

どんな風にわたしの心を整理したらいいんだろう、って思ったとき。

 

まず

自分の言動を一致させること。

 

(自分の心で思っていることと、

  口に出して言うことと、行動が一致しているか?)

 

 ※自分なりの理由や納得のもとに、一致していないことを意識しつつ、

   状況を考慮して言動不一致なことを敢えてする、ということはあるかもしれませんが。

 

↑自分の「心のクセ」として、無意識に言動不一致なことをすると

(例えば、礼儀としてはこうすべき、とか、他人からよく見られたいから、とか)

多分、ほかでもない自分の心にモヤモヤしたものが残る...ハズ。

 

ただし

「自分の心で感じていること」は

 頭で考えて「こうあるべき」というようなことではありません。

 

ある体験を前にして、自分が「素直に」こんな風に感じた...

それに対して、自分をジャッジすることなく、ただただ自分の心とまっすぐ向き合ってみる...

このことがキモなんですが。

(ここをスルーすると、自分が見えなくなります)

 

その上で

今、自分が体験していることで

自分がムリをしていたり、自分の心に背いて、

 

「みんながそんな風にしていることだから」

とか

「社会通例的にはこんなふうにするでしょ」

とか

「常識的には(これ!結構キケン!)こうだから」

とか

「他人に嫌われるの、嫌だから」

とか

 

結局はそういうことを理由にして、

とりあえず無難にすまそう、としていることはないでしょうか?

 

それより

今、わたしの心が1番欲していること、

今、わたしの心が1番喜ぶこと、

今、わたしの心が無理せず、安心していられること、

 

それはなんだろう?

そう

自分に問いかけて見て欲しい...

 

そうすれば、自ずと自分が取る道って

見えてくるのではないかな。

 

自分の心の庭を守り、耕し、豊穣にする、ってこと。

 

それは

他人に対して、頑なに心の扉を立てて閉ざす、

ということとは、違う。

 

自分の心の「わたしは〇〇したい」という声がちゃんと聴こえているから、

不必要なときは、他人が自分の心の庭にみだりに入ることを認めない...

 

とても、自分を大切にするから、の行い。

 

それは

他人に対する恐れや迎合から、ではなくて、

まずは自分の心の声を聴く...そこからはじまる行い。

 

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先日のライブで、わたしは初めて、ひと前で歌を歌いました。

(カラオケは別にして、ね)

 

わたしの歌の技術はさておき(苦笑)、

(すみません...お付き合い下さった

ライブご参加のみなさま、ありがとうございます!)

あの有名な「ROSE」という歌を、歌いました。

 

シンプルな歌なのですが、

メッセージがその時々の、そのひとの置かれた状況によって、

深く伝わる歌だと思います。

 

下手くそでも、歌いたかったのです。

わたしのボイスアートの師匠、まやはるこさんの日本語訳です。

 

最近のわたしに1番響くところは、2番の部分です。

わたしは、この歌詞に助けられてきましたから...

 


傷つくこと 怖れて

ダンスを踊れない

 

夢持つこと 怖れて

チャンスをつかめない

 

うばわれると思うから

与えられない

 

魂が怖れていては

生きる意味 学べない

 

 

 

歌のちから、って

大きいですね...

 

あらためて

そのことを感じています。

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わたしの「初めて」の時間を終えて、

そのひとなりの、さまざまな形でわたしと関わってくださった方、

お一人おひとりのことに想いを馳せながら、

 

わたし自身の「心の庭」を想うと同時に、

みなさまの「心の庭」が豊かなものであればいいなぁ、と

心から願いながら、つらつらといろんなことを思った1日でした。











 

ひとは生きていく上で、さまざまな人間関係において、

「許せない」という、強い感情に見舞われる経験をすることがある。

 

クライエントさんの話を聴いていても、

友人の話を聴いていても、

また、わたし自身の経験においても、

「許せない」想いをする経験は、珍しいことではない。

 

そんなことを考えていたら、

この本に出逢った。

著者は精神科医だが、書かれている内容は学術的なことではなく、

さらっと読める。

 

ラカン派の精神分析を学んだ、ということで、

精神分析の概念を使って説明している箇所もあるが。

 

著者自身が、祖母や母を「許せない」と強く思うことで、

悩んでいることが、本書を記すきっかけになっているようだ。

 

目次は

 

第1章 他人を許せなくて悩んでいる人たち

第2章 なぜ「許せない」のか?

第3章 「許せない」を引きずる人の特徴

第4章 「許せない」という病から抜け出すための4つのステップ

第5章 「許せない」自分を許すために

 

という章立てになっている。


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文中に興味深い例え話があった(本書 58頁)

 

夜道、強盗からバックを奪われた際に、ナイフで腕を傷つけられたとして、

傷つけた強盗が、あなたを治療してくれるだろうか?

 

否。

 

軽ければ、自分で応急処置もできようが、

重症の場合は、そんなわけにもいかず、

治療してくれるのは医師や看護婦であり、強盗ではない。

 

同じく、心に傷を受けた場合も、

あなたに傷を与えた当の相手が心の傷を癒してくれるわけではない。

 

相手の謝罪や許しを乞うのを待っていて、自分が許すか許さないかを決めるのは、

宝くじに当たるのを待っているようなもの。

それでは、自分の人生は相手次第ということになる。

 

それより、相手がどうあろうと、

自分の人生を自分の手に取り戻し、充実した人生を送ることのほうが、

相手への「最大の復讐」になるのではないか…

 

※実は、ここで「最大の復讐」という表現自体が、

 まだ、相手へのこだわりがあるようで、「復讐」という言葉に違和感を感じたが…

 

---------------------------------

 

本書で提唱されている「許せない」から抜け出す4つのステップ、

というのは、なるほどなと思わせるところがある。

 

「許せない」と思うことの裏側には、

多くは、自分が傷つく体験がある。

 

だから、まずは

 @「傷つき」を認識すること。

 

次に

 A「傷つき」からくる

   自らの心に沸いた「怒り」の感情を受け入れること。

        (感情は「怒り」だけではないかもしれない。「悲しみ」「妬み」「失望」「驚愕」…)

 

これらが「十分にできたら」(⬅これが結構、重要だとわたしは思うので、この言葉はわたしの追記)

  B相手を「理解しよう」とすること。

  (これは単に、相手を「理解」しようとするのであって、

  相手があなたにしたことを肯定したり、相手に共感できるようになる必要はない)

 

そして

  C「許せない」関係にけりをつける。

 

---------------------------------

 

わたし自身にも経験があるが、

 

@、Aステップが十分に行われていない状態で、

安易に「許そう」としたり、BやCのことを行おうとすると、

 

返って、心身に負担がかかる。

無理にしなくていい、と思う。

 

十分に、傷つけられた自分を労わり、

十分に、怒りを表現するのがいい。

 

傷つきや怒りが大きくて、

自分のちからだけでは手に負えなければ、

安心できる場所、あなたをサポートし、

味方になってくれる他者がいるところで、行うのがいい場合もある。

 

Bの、相手を「理解しよう」とすることは、

結局は、「自分を知る」ことにも繋がる作業である。

 

他人を責めたり、逆に自分を責めたりしないで、

淡々と、客観的に見られるようになったら、

かなり、あなたの心の傷は回復してきている、と言える。

 

実際には、すんなりと@→A→Bと進まない場合も多いと思う。

行きつもどりつしながら、

 

しかし

「自分の人生を自分の手に取り戻す」という意思を持つ限り、

 

「時間薬」「日にち薬」のちからも借りながら、

気がつけばC「許せない」関係にケリがついている…

 

むしろ

Cは最後のステップというより、

 

「許せない」関係にケリをつけるという意思を、

自分がもって望むのか、望まないのか。

 

そこなんだろうなぁ、とわたしは思っている。

 

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「許せない」心でいる、というのは

ものすごい心のエネルギーを使うことでもある

 

そして、多分…

 

そのような心のエネルギーの使い方は、

究極は、自分の心を蝕んでいくのではないか、と。

 

「許せない」関係にケリがつく、と

心がこんなにも軽やかになるものか、

とも、わたしは感じている。

 

 

 

 

 













 


 

少し、日が経ちました。

先日、自分自身の研修のために、

 

「薬に頼らず、うつを克服する方法」

 

という掲題で、関西カウンセリングセンター(淀屋橋)で行われた講座に、

出かけてきました。

 

講師は、秋田巌先生。

京都文教大学臨床心理学部の教授であり、

長年、精神科医として臨床でも、ウツの患者さんに向き合ってこられた方です。

 

カウンセラーという仕事に関わっておりますが、

実は、わたし自身も「うつ」に陥って、苦しんだ経験があります。

 

逆にそのとき、経験してくぐり抜けてきたことが、

今の仕事に役立っているとも言えますが。

 

わたしは、西洋医学的な視点や、

薬の服用は全面的に否定するものではないと思っています。

 

しかし、こと神経症レベルのウツに関しては、

薬の服用だけでは、よくならない…とも思っています。

 

先日の講座では、秋田先生は軽症〜中程度のウツは、

薬に頼らず克服することは十分可能だ、とおっしゃっています。

 

  ※どの程度が、軽症〜中程度かという目安について。

   どうにか、こうにか会社へ仕事に行けるレベルは中程度、ということでした。

 

冒頭の画像は、先生が最近発刊されたご著書です。

『うつの人の風呂の入り方』というタイトルですが、

本書は風呂の入り方だけをご指南されているわけではありません(笑)

 

ウツ状態に陥りますと、多くの人は細かい字を読んだり、

論理的にじっくりと考えることが困難な状態に陥ります。

 

そんな方たちのためにも読みやすいようにと、

とても平易に、普段の過ごし方について、

 

そして

とても実践的なことが書いてある本です。

 

うつ病の患者さんを抱えるご家族の方にとっても、

役立つ本ではないか、と思います。

 

著者の秋田先生ご自身は、

関わってきた多くの患者さんたちが教えてくれたことを、

本にまとめました、とおっしゃっています。

 

先生の講座での話を聞きながら、

また、自分自身の体験を通しながら、

「そうそう」と頷けることが、多くありました。

 

この本のなかに書かれていることは、

現在、ウツという状態にない方たちでも、

ご自身の健やかな生活のために、役立つことも多いと思います。

 

わたしが「そうだ、そうだ」と頷けたその一つを、

ご紹介します。

 

「考えるべきこと」

「考えても仕方のないこと」

 

この2つを、区別する

これらを普段から、自分で区別するちからをつけておくことは、

とても大切かな…と思うのです。

 

「考えるべきこと」というのは

なにか問題が起こったとき、あるいは問題が想定できるとき、

〈具体的〉に対処できる方法などについて考える、ということです。

 

ミソは〈具体的〉であること。

 

「考えても仕方ないこと」

というのは、多くは〈漠然〉としています。

 

〈漠然〉とした〈予期不安的なこと〉だったり、

自分の頭の中でどんどん、自分が膨らませていく〈妄想〉だったり。

 

あるいは

過ぎてしまったことへの、必要以上の〈後悔〉とか〈執着〉だったり。

 

ま、

「考えても仕方ないこと」というものに囚われる自分も、

 

ある意味、

それが自分にとって〈必要〉だからやっている、という部分もあって、

 

これもまた、

わたしは「考えても仕方のないこと」を考えてはいけない、

というつもりは、全然ないのです。

 

ただ

「考えても仕方ないこと」なんだけど、

 

今、自分はそれをやっているなぁ…その状態なんだなぁ…と《気づいている》のと、

気づかずに、その状態に《巻き込まれている》のとの、差は大きい。

 

精神的なダメージが大きく、ウツ状態までに陥ってしまっているときは、

「考えても仕方ないこと」に否応なく《巻き込まれている》状態とも言えましょう。

 

願わくば、心的なエネルギーがあるときに、

 

「考えるべきこと」

「考えても仕方のないこと」

 

これらを区別する…

このことを普段から、自分の中で区別できる智慧を養っておくと、

自分の心身の健康のために、随分と役立つ…と思います。



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因みに、本書の帯ウラには

「うつ病を一瞬でよくする魔法」の数々…って、

あるんですけどね…(苦笑)



 

 

確かに、ウツ状態、早くどうにか、って

本人も周りも思うこと、多いと思いますが。

 

う〜ん

「一瞬」で治る、ってない、って

わたし的には思うんですけどね。

 

でも

自分なりの「工夫」と「意思」で

ウツ状態を抜け出したり、うまくつきあうことは、

必ずできる!と、わたしは思います。



あ、それから!

 

・身体を温めること

・Earthing(アーシング)…自分が大地の上にしっかり立っている感じを培うこと

 

この大切さも、秋田先生は伝えておられます。

わたしも、同感です!

 

今、うつでしんどい方も、

なんとか薬に頼らず、ラクになって、

生き生きと過ごせるようになっていかれますように、

心から願ってやみません。

 




























































 

※ 田中圭一さんがこの本の出版に際して語った記事は、コチラ

 

辛い’うつ’から、どのようにして抜けていったか、

あるいは、’うつ’とどのようにつきあっているのか…

 

このコミックについては、ご存知の方も多いでしょう。

 

漫画家・田中圭一さんが自身の体験、

また、著名人を含む他の経験者の話をもとに、書かれたものです。

 

仕事柄、’うつヌケ’について、どんな風に描かれているのか興味があり、

たまたまこの本が、手元にやってきたので読んでみました。

 

ひとの数だけ、ひとの生き様があるわけですから、

一口に’うつ’と言っても、なにが原因なのか、どんな症状なのか、

あるいは、うつのヌケ方だってひとの数だけあると言えましょう。

 

漫画の最後に、こんなコマがあって、

なるほどね、と思えるコマを紹介します。

 

 






うつは「なる」ものじゃなくて、

誰の心の中にも「眠っている」もの

 

この考え方は、’うつ’を否定するのではなくて、

’うつ’は誰でもなるかもしれない、という前提ありきで、

いい感じだなと思います。

 

 

そして

「自分が好き、肯定されたい、必要とされたい」

この人間の本質に抗うと、心が弱る…

 

このことは、

きっとどんな人にとっても、そうなんだと思います。

 

 

そして

 

うつは心の風邪

というのはよく聞く言葉です。

 

多分、これはひどくこじらせてしまう前に、

心の声に気づいて、手当をしよう…

誰でもかかるかもしれないから…ということなのでしょう。

 

ある意味、そうとも言えますが、

本書ではこんなコマもありました。



 

このコマは、脚本家の一色伸幸さんが体験されたことで、

 

一色さんは、自分ではなんの思い当たる節も要因もなかったにも関わらず、

ある日、突然「風景から色が消えた」と言っておられます。

まさに、晴天の霹靂だったでしょう。

 

しかも

うつは放置しておくと、死に至る病なのだ、と。

 

そしてひとりの自死は、

明らかに周りの関係者に、大きな影響を与えます。

 

  ここの件(くだり)を読んでいたとき、ある本の記述を思い出しました。

    興味のある方は、本を読んでいただきたいのですが、

  死にたい…という「希死念慮」に至るのは、

  原始社会には意味のあった’絶望のプラグラム’が’誤作動’するからだ、という説です。

 

     ※「自殺の危機とカウンセリング」第1章『自殺とはなにか』(下園壮太著 金剛出版 2002年)




 

うつは、’心のガン’

 

だけども、

わたしたちはその’心のガン’に対して、打つ手はあります。



 

「自分を否定するものから遠ざかり、

 自分を肯定してくれるものに近づく」

 

基本はこれです。

 

逃げるが勝ち

なんて諺もあります。


褒めて育てよ

という言葉もあります。

 

ひとは健康な時は、自分自身のちからで、

「自分を否定するものから遠ざかり、

 自分を肯定してくれるものに近づく」

これができます。

 

多少の辛いこと、苦しいことがあっても、

自分の心身を守るために、

あるところや、ある関係から距離を置いたり、

自分自身を肯定的に捉えなおしたり、ということができます。

 

しかし

育ちやその後の人生経験の中で、否定体験があまりに強烈なものだったり、

あるいは、あまりに心と身体が弱りすぎて、

自分自身のちからで、自分自身を守ることが覚束無いときもあるのです。

 

自分自身のちからだけでは

「自分を否定するもの」と距離が取れない(離れられない)

「自分を肯定してくれるもの」に気がつかない

という状態になります。

 

そういうときは、

他人のちからや専門家のちからを借りることが、

必要になることもあるのです。

 

’うつ’は、

自分自身の心身に起きていることを、教えてくれているのです。

 

’うつ’にはならないに越したことはないかもしれないけれど、

’うつ’を通して、自分自身と向き合い、自分らしく生きるきっかけに、

なることもあるのです。 





 

 

 

 

 

 



























↑絵を描くモデルに、といただいたツワブキ、郵便局で期間プレゼントでもらった花ポットや、

旅先の道の駅で買った花ポットの花々が...なかなかに涼しげです。

 

カウンセリングには、いろんな方がいろんな悩みを抱えてこられます。

 

最近、来られているAさん。

あることに対して怖い、という訴えをされています。

 

先日、Aさんの「怖さ」についてお話をお聴きして、

はじめてわかったことがありました。

 

わたし自身の思い込みや、知らなさから、

Aさんの一言でおっしゃる「怖い」の背景に、

どんな「怖さ」があるのか、危うく見逃すところでした。

 

クライエントさんのことは、

クライエントさん自身に聞いてみないとわからない。

まさしく、それ!

 

カウンセラーは「聴く」を通して、

クライエントさんが自分の声が「聴く」ことができるように、

自分と向き合えるようにサポートする

 

自分自身の心の声と繋がって、

自分がこうしたい、こうしよう...と思った先に、

その方の進む道があるはずだからです。

 

Aさんはご自分の怖さを抱えながら、

その「怖さ」と向き合おう、という意思をお持ちです。

 

Aさんのお話をお聴きしていると、

行きつもどりつしながらも、

Aさんの「自分を生きようとするちから」を感じます。

 

そんなAさんの姿を見せていただいて、

ありがたいなぁ、とそんな気持ちになります。




 

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身体的、精神的、心理的な不調に陥ったとき、

それらの症状を緩和するために、

服薬などの医療的な処置が必要な場合や、助けになることも、確かにあります。

 

ただし、わたしはこんなふうに思います。

 

心や身体に表れること、症状、もっと広げて言えば、

出会う体験すらも、そのひと自身がこの世で向き合う’課題’として、

無意識のうちに、どこかで「それ」を選び、

あるいは「それ」に選ばれて、出会っているのでしょう。

 

 ※ここで1つ、申し添えておきたいのは、

  ひとが出会う体験(筆舌に尽くしがたい辛いものであった場合は、特に)が、

  仮に、そのひとのこの世で向き合う’課題’だとしても、

  それは決して「〈その人が悪いから〉〈その人に罪があるから〉そんな体験をするのだ」

  ということでは、決してありません。

 

自分の’課題’として、取り組むも取り組まないも、

そのひとの意思次第、自由なのです。

 

 

心身一如、という言葉があります。

 

ふだん、自分が「頭」で、

「こうすべき」とか「こうでなければならない」とか

「当然こうしかありえない」と考えていること、思い込んでいること...

 

これらは本当に、

あなた自身にとってあなたが安心して、心地よくいられることでしょうか?

 

頭で判断し、考えていることが、

ときに自分の心に背き、自分の身体に背いていることがあるのです。

 

心の声は、身体に表れます。

「症状」として表れることもあります。

 

心や身体に表れていることや「症状」は、

自分が本当は言いたいことだったりします。

 

心や身体に表れていることを無視したり、ないことにしたり、

むやみに「症状」を消すのではなくて、

それらと向き合う、それらの声に気づく、聴く...

 

そうすると、自分の取り組む’課題’に気付いたり、

自分が本当にしたいことや、自分のありたいあり方に気付いたり、

そんな道筋への入口にもなるのです。

 

今まで、気づかなかったこと、

気づこうとはしなかったことに触れるのは、

怖いことでもあります。

 

勇気ある行為です。

 

同時に、

喜びの存在である、本来の自分自身と出逢うこと

 

でもあります。

 

自分と向き合うとは

そういうことだと、わたしは思っています。

 

 

 




















自分の中に起こりがちな「評価モード」とどう、つきあうか。

 

  どうせ、わたしには才能がない…

  どうやったって、上手くいくはずがない…

  わたしは、ダメ...



こんなふうに、「わたし」に✖をつけてしまうクセ。

 

または

「こうある’べき’理想の形」を最初から描きすぎて、

こんなはずではない!のループにハマってしまう…

 

表現することにおいては、

「自分に対する(特にマイナス)評価モード」が発動すると、

こころも身体も、緊張し、萎縮してしまいます。

 

(すでにある’お手本’を見ながら描くときは、少し違ってくるかもしれませんが)

パステルの絵を描くことで言うと、

 

   ●最初から「完成形」を、頭の中で作り上げない

   なんとなくこんな風に…みたいな、自分の中で感じられる「なんとなく」を大切にします

 

    ●なんとなく自分の中で感じる…自分の「感じ」を丁寧に味わう

 

   特に途中、どんな風に描けばいいか迷ってしまう、あるいは、詰まってしまったら...

   一旦とまってみる(時間を置く)

 

 

   ●紙の向きを変えてみる(視点を変える)

   ↓向きを変えると、なんとなく見える「感じ」が変わりませんか?

 

 

 

 

そして

わたしを無心にして、気づきを促す言葉

(友人Jさんがよくこの問いかけの言葉をかけてくれて、いいなぁと思っているものです)

 

   この絵は今、どうなりたがっている?

 

 

「そんな!絵に問いかけたって、絵が答えてくれるのかなぁ?わからん〜」と言わずに、

1度、試してみてください。

 

特に最後の問いは、

「自分がなんとかしなくちゃ!」という気張りから、自分自身を自由にしてくれる

そんな働きがあるように思います。

 

コツはボンヤリと絵を眺めてみること。

 

また

くるりっと絵の向きを変えることで、

自分の中の感じ方が変わったり、見え方が変わります。

 

あ!次はここをこんなふうに描いてみようかなぁ、なんて

新たなアイディアが生まれてくることもあります。

 

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絵を描くことに限らず、

上に示した「評価モード」とつきあう…というより、

「評価モード」に掴まらないコツ、と言ったほうがいいでしょうか、

 

これは、

普段の自分に起きた体験と、どのようにつきあうか。

そんなコツにも、通じているように思います。

 

わたしが何とかしなくちゃ!」という自我を手放してみる ことで、

逆に物事がスムーズに動くこともあるなぁ、と実感している昨今です。



 向きを変えただけの同じ絵。あなたはそれぞれにどんな感じがしますか?

 








 

 

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